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福岡高等裁判所宮崎支部 昭和32年(う)179号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

一、本件控訴の趣意は高千穂区検察庁検察官事務取扱検察官検事藤井洋名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、これをここに引用する。

二、右に対し当裁判所はつぎのとおり判断する。

論旨は、原審は被告人の業務上過失の刑責を自動三輪車の積荷の上に乗車していた助手甲斐幸の傷害の結果に対してのみ認め、右助手とともに同乗していた福島境の死亡については被告人の過失と法律上の因果関係がないとして無罪の判断をしたのは法令違反であるというのである。よつて被告人に業務上の過失があつたかどうか、さらに、被告人の業務上過失によつて右自動三輪車が顛落し、その衝撃によつてその積荷上の助手甲斐幸が傷害を受け、福島境が死亡した場合、被告人において助手甲斐幸の乗車について認識がある以上、たとえ、福島境の乗車について予見ないし予見可能がなくとも、所論のように「人」の乗車の認識があるものとして福島境の死亡の結果についても被告人に刑事上の責任があるかどうかについて検討する。

そこで、まず過失犯一般の構成について考察すると、同犯が成立するには第一に構成要件該当性(違法性)として過失行為の存在、すなわち、注意義務があるのに、その注意義務に違反したこと、および、過失行為と結果との間に因果関係があること、第二に非難可能性として、右第一の注意義務違反という違法な過失行為によつて発生した結果についてその行為者に非難を加えることの可能性(結果の主観的予見可能性および、行為者の結果回避に対する期待可能性)の存在が必要である。

そこでまず、本件事故が被告人の過失にもとづくものかどうかの点であるが、原判決挙示の証拠によると、原判示認定のとおり、本件事故現場附近は道幅二米四〇乃至二米八〇位のせまい場所で、左曲りのカーブとなつていて、進行方向に向け右側は高さ七米七〇位の崖で、その下に中崎部落に通ずる旧町道があり、この町道の右側は更に一五米位の崖で、その崖下は二又川々底となつているし、道路の中央附近には岩石が露出していて、その岩石をさけては通行不能の状況で、自動車の運転者は一度操縦を誤れば右の崖下或は二又川々底に顛落するおそれのある自動車の通行に極めて危険な場所であることが認められ、しかも、当時右三輪車はブレーキに故障があるため急停車ができない状態にあつたのに、積荷は積載量二屯を超えて三屯位であつたことが認められる。したがつて、原判決認定のとおり、自動車の運転者はまずブレーキを補修して運転するは勿論、積荷も二屯以内に制限し(積荷の重量のため操縦の自由が制限される)、且つ道路の状況を十分注視し、なるべく左側寄りを進行するとともに、何時にても急停車等の措置をとり事故の発生を防止する業務上の注意義務があるというべく、被告人はこの注意義務を怠つてブレーキの故障を補修しないまま積載量を超える三屯の木材を積載し、漫然道路右側寄りを進行したため、前車輪を道路に露出している岩石に乗り上げ操縦の自由を失つて左側に寄れず、その上ブレーキも十分に利かず、さらに右側を進行したため積荷の重量によつて道路の右肩が崩壊し被告人の運転する右自動三輪車を崖下に顛落させるにいたつたことが認められるとともに、右顛落によつて該自動三輪車の積荷の上に乗車していた福島境を崖下の町道にふり落し、その強度の衝撃によつて同人に対し頭蓋底骨折、鼻骨々折を与え同日午後五時四〇分頃日之影町直営病院において死亡するに至らしめたこと(死因の点は医師柳田惣吉作成の死亡診断書によつて認める)、が夫々認められる。そうすると、右福島境の死亡は被告人の業務上過失行為によつて発生したものというべく、この関係においては被告人の所為は前示説示の構成要件該当性(違法性)が認められるといわざるを得ない。原判決はその説示において福島境の死亡は被告人にとつては全く偶然かつ不可抗力のできごとであつて被告人の操縦上の過失と福島境の死亡との間には法律上の因果関係がない、との表現を用いている部分があるが、真の意味の不可抗力とは、注意義務そのものが客観的に存在せず、したがつて侵害すべき注意義務すら存在しないとき、又は法の要求する注意義務を完全に遵守したのに結果が発生した場合を意味するものであり、また、因果関係の存在しない場合とは過失行為が存在しても、これと無関係に結果が発生したと認められる場合、又は過失行為がなかつたとしてもやはり結果が発生したと認められる場合を指称する(これらもまた不可抗力といえる)のであつて、いずれも違法性のない場合のことであるが、右認定のとおり被告人には注意義務違反があり、その結果福島境が死亡したのであるから、原判決は措辞適切を欠き誤解をまねく虞れがあるが、その前後の文言を対照して考察すると、原判決のいう不可抗力(結果の主観的予見可能性のない場合で、結果の発生は行為者じしんにとつては不可抗力ともいえるとき)の趣旨であり、被告人に非難可能性のない説示として用いた文言であることが察知されるので、原判決の右の措辞を捉えて原判決を非難するのは当らない。(かりに、原判決の右説示が客観的不可抗力すなわち違法性のないことの趣旨でその点において法の解釈を誤つているとしても、原判決は他面被告人に非難可能性がないことを認定し、後記のとおり当裁判所も被告人に非難可能性を認めないので、福島境の死亡について被告人に刑責のないことの結論には変りはないわけであるから右の法律解釈の誤りは何等判決に影響を及ぼさないことに帰する。)

よつて、つぎに被告人に非難可能性が認められるかどうかについて検討する。

まず、結果の主観的予見可能性の有無であるが、甲斐幸、西村良助の司法警察員に対する各供述調書、竹山惣二郎および被告人の検察官に対する各供述調書、当審証人甲斐幸の供述を綜合するとつぎの事実が認定できる。

被告人が助手や人夫とともに木材を積み終り、助手甲斐幸は積荷の上に乗つて綱の締方やカスガイ止めをした後発車準備完了の合図をしたので被告人は運転席に乗込みエンジンをかけて出発したこと、右エンジンをかけてから後、まさに出発しようとする時になつて、右三輪車の附近で木材積込みの人夫と世間話をしていて乗車について事前に被告人や助手に了解を得ていないばかりでなく、乗車の素振すら見せなかつた福島境が車の横側後方から慌てて積荷の上に無断でとび乗つたこと、被告人のいる運転席からは幌および積荷が障壁になつて積荷の上に乗車している助手も福島も全々見えないこと、助手甲斐は福島の乗車の事実を被告人に告知しなかつたこと、被告人は事故発生後にはじめて福島が乗車していたことを知つたことが夫々確認できるとともに、本件山床の木材運搬に従事中被告人は積荷に行く空車のときは知人を便乗させたことはあるが、積荷の自動車に便乗させたことも無断で乗車した者もないことが認められる。右認定のとおり被告人は福島境の乗車を知らなかつたのであるから同人の死亡(結果)についての予見はなかつたというべく、また、右認定の具体的状況においては被告人に福島境の乗車を予見し得べき状況にあつたとは到底認められないから、その結果発生(死亡)についての予見可能性は存在しないといわざるを得ない。検察官は、福島境なる特定人の乗車予見はないとしても助手甲斐が乗車していることを知つている以上「人」が乗車していることを予見しているものとして福島境の致死について当然刑責があると主張するけれども、責任要素である主観的予見可能の有無はその具体的結果発生の予見の有無として考察すべきであるから検察官の主張は採用できない。検察官はその主張の論拠として不特定人が乗車する列車を運転する機関手の場合、雑とうする場所を運転する自動車運転者の場合を例示しているけれども、これらの場合は、機関手、運転者は、夫々不特定の乗客、不特定の通行人として予見しているわけであるから、その点において予見ないし予見可能の範囲内であると認め得る。したがつて右の設例は本件の予見可能性の有無認定を非難する論拠とはなり得ない。検察官の解釈に従えば、助手の乗車している貨物自動車の荷物の下に夜来ひそかに忍び込んでいたのを出発にさいして点検したが気付かず、そのまま運転し、過失よつて自動車が顛落し死傷せしめた場合にすら当然刑責を生ずることになり、結果の主観的予見可能性を非難可能性(責任)の要素とすることが無意味となり左祖できない。要するに当該行為者にとつて、一般には予見可能な結果の一部しか予見可能のないようなときは、その一部の結果の発生に対してのみ非難されることになる。以上判断のとおり、被告人に対し福島境の死亡について業務上過失としての刑事責任のないとした原判決は相当であつて、原判決には所論の法律解釈の誤りも法律適用の誤りもない。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法第三九六条により本件控訴を棄却すべきものとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 二見虎雄 裁判官 後藤寛治 矢頭直哉)

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